どうやら今夜は大層な客を迎えるらしい…らしいというのは迎える側である主人の機嫌の良さと、自身に誂えられ調えられた物々からの推測だ。沐浴後に高そうな香油を擦り込まれ、薄布を重ねた繊細な作りの衣服を身に纏う。肩甲骨辺りまで伸びた髪は丁寧に梳かれて、最後に美しい装飾品を首に腕に髪にと付けられた。これで主人に媚び愛される人形の完成だ。自嘲に歪みそうになる唇はけれどその実ピクリとも動かない。何もかも疲れてしまったのだ。主人に言われなければもう笑うこともない。たまに笑い方すら忘れそうになるのだからよっぽどだ。
(だって主人一人にのみ捧げる笑顔に俺は価値なんて見いだせない)





おいでと連れられた部屋には香が焚きしめられ、奥には腰を下ろす二人の人物。何でも所用で此方へ訪れた名のある人物が、一夜ばかり少しの交渉を兼ねて泊まるという。先ず目に留まった堂々たる佇まいの髪の長い美丈夫。恐らく彼が名だたる傑人。なるほど確かにその風格は一目でただ者ではないことが窺い知れる。けれど自分には興味も関心も関係もない。シャラリと揺れる髪飾りを鬱陶しく感じながらもう一人へと視線を移す…と、


「アリ、ババくん?」


茫然としたような声音が部屋に響く。それはもう二度と呼ばれない筈の自身の名前で。タイミングが良いのか悪いのか…視線が互いに絡み合い、俺は思考全てを停止する他無かった。


「ジャーファル、さん?」










バタバタと慌ただしく部屋を飛び出し、無我夢中で右も左も確認せずにただ走る。
(なんでなんで…どうしてジャーファルさんが)
上がる呼吸と嫌な脈動に吐き気が込み上げてきた。突き当たりを左に曲がろうとした瞬間、自身の右手を掴まれ反動で後ろに傾く。

「ア、リババくん」

焦ったような声と共に身体をガッチリと抱き締められる。腕ごと拘束されて動けない。捕まってしまった。
(そうだ、俺なんかが本気のこの人から逃げられる訳がない)
諦めと共に力を抜くと、ゆっくりと拘束が緩んだ。

「アリババくんですよね?」
「……はい」
「何故こんな、」

そこで途切れた言葉に改めて自分の今の格好を思い出す。ああそりゃ驚くよなぁとどこか他人事のように考える。


…昔の話だ。
そう昔の話。俺がまだ小さくて何も知らなかった頃の話。俺はいつもジャーファルさんに引っ付いてまわっていた。彼が越してきた当初から何故か気になって気になって、幼心のままに行動し、何をするにもどんな時でも隣に住まう彼の傍にいた。最初こそ邪険にされたが次第に普通に接してくれるようになり、やがて自ら構ってくれるようになった。そして彼の口調が穏やかになり且つ敬語を主とした頃、知らない遠くの場所へと行ってしまった。仕える人が見つかったのだと彼は嬉しそうに言った。良ければ一緒にと誘われたが、母親が病気がちの上にそんな好意は受け取るべきじゃないと首を横に振った。別れは寂しかったけれど、またいつか必ず会いに来ると頭を撫でられてしまえば俺は頷くしかない。…だって俺に彼を引き留める権利なんて無いのだから。それから一ヶ月も経たないうちに母親が亡くなり、住んでいた場所からの退去を余儀無くされた。
その後はもう…、




静かな廊下の端。そっと彼を窺うと哀しそうな顔をしている。それに疑問をくすぶらせながらもお客様にこんな表情をさせては主人に怒られると脳が訴えた。
(ああそうだ、きっとまた罰を受けなきゃならない)
客の前で部屋から脱兎のごとく逃げ出して、主人の顔に泥を塗ったも同然だ。どちらにせよ罰を受けるならより軽い方がいいに決まってる。ならばと先ずはジャーファルの曇りを払おうと、固まった顔を笑みの形に動かす。だって彼は昔、俺の笑った顔が何より好きだと言ったのだ。

(あ、れ?)

上げようとした口角はヒクリと小さく痙攣しただけで思うように動いてくれない。どうして、なんで。

「アリババくん」

そうしてツラそうにジャーファルに名前を呼ばれた瞬間、心の奥に降り積もり詰まっていたあらゆるものが決壊した。

「ぁ、…ッ」

ぼろりと落ちた涙と共に心音が耳鳴りのように体内で響き出す。銀灰の彼を視界に捉えただけで感覚器全てがバカになってしまったようだ。




「ッこんな姿、ジャーファルさんにだけは見られたくなかった…!」



大好きなひと
憧れのひと

あなたが優しく撫でてくれる度に俺は何よりの祝福をもらっているような気がした。なのに、


(汚れた俺で、貴方に会いたくなかった)


ずっと会いたかった
だけど会いたくなかった
彼に嫌われてしまうのが何より怖くて
だから名前なんて呼ばれなくていい

(この世界のなかで、こんな俺の名前なんて落とされなくていい)


止まらない涙と落ち着かない鼓動。徐々に酷くなってくる頭痛と吐き気に神経が焼き切れてしまいそうで。グラリと反転する景色と銀灰を最後に俺は意識を失った。





***





「シン、お願いがあります」

張っていた気がぷつりと切れたのか眠るように気を失ったアリババを抱きかかえ、そのまま自分達にあてがわれた部屋へと移動する。最初に通された部屋にまだ彼は居るのだろうかと忠誠を誓った主を脳裏に描くが、扉を開けた正面にその人…シンドバッドを留めた途端に肩の力が抜けた。寝台の上に腰を下ろし分かっていたように自分を待ち受けていた彼に、ならば話は早いと開口一番要求を伝えた。

「こんな劣悪で醜悪な環境に彼を置いては行けません」

意識のないアリババを見下ろしギチリと唇を噛み締める。
知らなかった…知らなかったとはいえ彼は一体どんな扱いを受けてきたのか。それを考えるだけで臓腑が捻れ煮えそうだ。こんな姿見られたく無かったと泣き叫ぶ彼を見て鈍器で殴られたような感覚がした。
(それはつまりこんな君のことを何も知らないままのうのうと生きろ、と)
ああまさか、そんなのは自分が許せない。グラグラと沸き立つ思いが殺意に変わりそうになった瞬間、シンドバッドが大きな溜め息を吐いた。

「珍しいお前の頼みだ、何をしても叶えてやるさ」

寝台から腰を上げ、行ってくると部屋を出る主を頭を下げて見送る。下ろした先にあるアリババの顔を見つめ、それから目を閉じた。


「アリババくん、勝手なことをしてすみません」
(けれど)
「君の否を聞くつもりもありません」


「私に攫われて下さい」
(君をここから連れ去ります)



「責任はとりますから」
(必ず、君に幸せを)



腕の中眠る少年の額に口付け、どうか世界がこの子にとって幸福であるようにと心から願った。